尊敬する人物を語る
| 大谷 吉継(おおたに よしつぐ) 私が大谷刑部(おおたにぎょうぶ。この通称の方がとおりがいい)を尊敬するのは、血で血を洗う戦国の世の中において「信義」を押し通し、友人である石田三成のため、確実に助かる命を戦場に散らしたところである。 その友情とはこういうことだ。刑部はハンセン病を患い、顔を布で覆っていた。ある日秀吉主催の茶会の席で、刑部は顔の膿(鼻汁ともいうが)を茶碗に落としてしまったが、三成は平然とそれを飲み干した。刑部はそれを恩義に感じ、その友情を守り通したのだ。 時は流れ慶長5年(1600)、徳川家康の挑発を受けた三成は決起を決意し、家康とも懇意の刑部に相談する。刑部は「貴殿には人望がない」と翻意を勧めるが、意志が固いと知るや家康に味方する道を捨て、三成に味方した。 関ヶ原の戦いにおいては、小早川秀秋の裏切りを読み、敢えて秀秋の陣地の真下に布陣した。案の定、秀秋は戦い半ばに裏切り、大谷陣地に襲いかかった。刑部は奮戦するも、予想外だった脇坂安治らの相次ぐ裏切りを受け、大谷勢は包囲され全滅、刑部も自害にした。関ヶ原で散った唯一の大将であった。 信じるもののために生きる、「信義」という命を失ってもこれだけは守らなければならない、というものを守った生き方にすがすがしさを感じる。 「信義」などというと、いまや浪花節の世界になってしまったが、私も信じるもののために生きていきたいと思う。 |
![]() 大谷吉継(1559〜1600) |
| 通称:刑部少輔 越前国敦賀城主 近江国生まれ。賤ヶ岳の戦いではなどで武功をあげ、秀吉に「百万を軍を指揮させてみたい」と言わしめたほど。その後は主に事務官僚として活躍。朝鮮出兵の際は秀吉の名代として渡海した。関ヶ原の戦いで石田三成に味方し、松尾山下に布陣。小早川秀秋等の裏切りを受け自害。娘は真田幸村の妻。 |
| 渡辺 綱纜(わたなべ つなとも) 渡辺は大学の先輩であり、私が勤務していた宮崎交通の会社の大先輩でもある。 渡辺といえば宮崎交通の企画宣伝課長として様々な企画を成し遂げ、観光宮崎の黄金時代の1ページに大きな足跡を記した人物である。 よく「渡辺さんの頃はいい時代だったからなぁ」という人がいるが、渡辺という人物が、岩切章太郎から信頼を受け、川端康成や永六輔と懇意にしたというのにはそれなりの理由があると思う。 私が渡辺から学ぶことは、その細やかでいやらしくない心遣いである。 例えば、リタイアして何年も経って人知れず亡くなった会社のOBなどのところに、どこからか情報を得て花を持って現れるのである。その人が必ずしも高いポストであったとか、充実した会社員生活を送っていたとか、そのようなことはまったく関係なく、である。 人間は、いま権力がある人には誰でも媚びへつらう。大事なことはそのような「忘れられた人」「負けた人」「日のあたる坂道を上れなかった人」にも同じような、いやそれ以上の心遣いをすること、これは渡辺の背中から私が学んだことだ。それが、今なお多彩な人脈を持ち多くの人々から慕われる要因だと思う。 確かに渡辺が最も活躍した時代は、観光宮崎の黄金時代と重なる。岩切章太郎の有名な言葉に「自然の美 人工の美 人情の美」というものがあるが、その「人情の美」を実践してきたのが渡辺だと思うし、この言葉は宮崎の未来に大きなキーワードになると思う。 (敬称略) |
![]() 渡辺綱纜(1931〜 ) |
| 韓国・釜山生まれ。1943年、父の死去で宮崎に帰る。中央大学卒業後宮崎交通に入社。岩切章太郎の薫陶を受ける。企画宣伝課長、総合センター部長など歴任。その後取締役、常務取締役を経て宮交シティ社長。その後同社顧問を経て、2005年3月まで宮崎産業経営大学教授。現在は宮崎市社会福祉協議会会長、雲海酒造顧問を務める。 〔参考資料〕 翔べフェニックス 1999 鉱脈社 |
| 広告 | [PR] 花 お取り寄せ キャッシング 訳あり | 無料レンタルサーバー ブログ blog | |